こんにちは。北岡慎也 研究室(伝統建築領域)のご紹介です。
当研究室は2025年の4月からスタートした新しい研究室です。4階の南西角にあります。お越しになられたら気軽にお声を掛けてください。
当ゼミは主に私が実務で携わった数寄屋建築や日本庭園を学ぶほか、町家や都市景観、障壁画や室内意匠および保存・活用・継承に加え、文化的な側面から空間を考える研究室にしたいと思っております。
研究室には過去の蓄積や作品などがあまりないため、実務時代の資料に限られます。部屋はガランとした雰囲気ですが、2025年度は学部生6人が所属し、それぞれの研究に取り組んでいます。研究室で動かしているプロジェクトなどはまだありませんが、今回のブログでは今年の卒業研究のテーマを紹介し、学生の主体性を重視した自由な雰囲気が伝われば幸いです。

私は日本の文化財庭園および付属建物の修理に長く従事していました。専門的には歴史的な庭園技法や考古学的調査を踏まえた修理技法、付属建築物の保存修理に加えて、史跡名勝等の保存活用計画や歴史文化基本構想から始まった景観政策に関わる調査の経験を有します。しかし専門性が強すぎるのか、そういったテーマに関しては今年度のメンバーは触手を伸ばしませんでした。当ゼミは日々の素朴な興味をいかに学術的な手順で思考し、論理的に整理するかを尊重したいと思っています。そしてなにより自分で決めたテーマをいかにして学術的に論考するか。その楽しみを享受できうるかに主たるゼミの意義を置いています。
例えば、昨今注目される「地域文化」というと「景観」が真っ先に挙げられます。これは建築の伝統が社会によって「環境化」された蓄積でしょう。それらは全体が決まった後に考案されたものではありません。むしろ長い時間をかけて地勢的にも住民にも災害にも戦争によっても淘汰され、修理され、継承されて残されたものです。すなわち多くの利用者らが日々検討したうえで成立したものが「建築の伝統」となり形式が生まれた。と同時に支配者や主体性を持つ自治の統制によって「都市的思考」が形成され、それが再度社会に評価されたのです。統制や美意識を強要しただけではなく(そういう時期もありましたが)、したたかで巧妙であったでしょう。この「〇〇的思考」は文化そのものであり、成熟するまでに長い時間と努力が必要なものといえます。ものの分析の先にあることとは何かを見つめていきたいのです。
卒業研究は読書感想文を自由に書く課題でもなければ、基礎教養でもありません。こうした社会の要請にかかわらない「学生個人」が見定めた「文化的事象」を学術的なセオリーを借りて客観的に指し示す、すなわち論考するトレーニングを実践するものです。卒業研究は大学内でその内容をオフィシャルに評価し合う一大イベントであって、ダービーであると我がゼミでは学生とともに認識しています。
当然ですが、こんな理屈はなかなか浸透しませんでした。ですが、ゼミ生らは素朴な自身の経験から生ずる疑問を恥ずることなく、借り物のテーマではない個性豊かなテーマを温め始めました。こうしてゆっくりと紐解いていった興味は「日本の環境と建築物」「日本建築の社会的受容や理解のされ方」「現代建築デザインに潜む日本的思考」「地元京都の都市構造やその変遷」「日本庭園における苔」「映像と建築」などでありました。4月以降彼らから空間経験の糸口を紡いでいく地味な作業が始まりました。この行動は学術的な雰囲気を持つ論理的帰結はほとんど軽薄なものであることが明らかになったと同時に、こうした考えからするとすべての学術的創造は単なる模倣となり、それは常にオリジナルには到達できないに違いないのではないかという不安にもぶつかりました。しかし手法を借りて模倣することで、小さな実をつけ理想化されたテーマを再度引き延ばすことも重要であることに気が付き始めたのは7月ごろであったと思います。そこには小さいがささやかな輝きもありました。なぜなら述べられる対象の持つ赤裸々な「真実」を見つけていくうちに自分の空間経験が実に学術的であったり芸術的であったりと過去の文化に支えられたものであることに気が付き始めたからです。専門的な話をする友達も出来たりするのを見ていると、微笑ましく思います。
具体的な研究テーマ探しは、ゼミの持つ活動の蓄積や担当教員の専門性に加えゼミへの社会的な要請なども含め、数多くのメニューがゼミから提示されるのも理想です。しかし実務から来た私にとってそれに見合うものがない状況です。したがって、少しずつ各々の興味や読書会、見学会などを通じて「建築的に思考することの意味」を見つめていくことにしました。

研究所勤務時代8年間かけて修理した名勝智積院庭園にも足を運びました。


8月1日に卒業研究のテーマ発表会がありました。我がゼミのテーマは多岐にわたりました。アニメ表現における日本建築の空間性であったり、過去2000年間の日本の平均気温と日本建築における構成要素の主な進化過程との共時性。丹下健三のもつ日本らしさに挑戦しているものや私たちが眺めている店舗やインテリアに見られるスケルトン天井に対し、日本の「あらわし」文化や数寄屋および近代建築との関係を紐解く試みであったり。さらには伏見の都市が秀吉の作った大名屋敷地割を変えずとも酒造業集積都市になぜ成り得たのか、などがあります。振り返るとまあ図々しいなあと思いますが、広げた風呂敷を閉じるのは教員の務めでもあるでしょう。ドキドキします。
例えば日本建築には年輪年代法という年輪幅の微細な変化を基に古材の伐採年を判定する話をしていますと「年輪幅」は気候変動による温冷暖状況の結果と知るや否や、「過去3000年あまりの気候変動と建築史そのものを照らし合わせてみたい!」というようなひらめきに繋げた学生がいたのです。教員の私も驚きました。
やりたいことを見つけるのは難しい反面、見つかれば面白いですね。その学生は王道の日本建築史とはすこし筋の異なるラインの本を集めていました。


など生きた資料を素朴な疑問から経験を通して「学術」にしていきたいと思っています。
多様なテーマが動き出した北岡ゼミですが、「建築的思考」を紐解く遊びを通じて「考えることを楽しめる」場にしたいと思っています。そのためにもまずは自分が楽しまなくては!と思う今日この頃です。もちろん発表会では引用した建築事例や分析手法に対しての厳しくも暖かい意見も頂戴しましたが、それらに学生らは大いに苦しみつつも前向きに取り組む学生らと過ごす時間はとても貴重で尊いものでもあります。
むろん大学での研究や個人の疑問が仕事や地域活動を通じて人々に貢献を果たし、卒業・修了後も将来の生活に向けてのモチベーションに繋がることも願っています。焦らず生きてきたのは京都そのもの。アンテナを張って学生時代を楽しんでいきましょう!
(文責 建築学科 北岡慎也)